1.「今後日本国債20年債は誰が買うのか?」
本日は20年国債の入札日。「何とかギリギリ無難」の入札結果だったようだが入札で落としたところで転売先はあるのだろうか?今までは日銀が購入してくれたが日銀ももうお腹一杯になりつつある。今、外なので正確な数字は覚えていないがたしかすでに20年債は20数兆円保有していたはず。日銀が満期まで、それを保有しなければならないとすると、その購入資金は市中にばらまいたまま(=その分の日銀当座税金は減らない) 。いくら物価上昇が加速してもだぶだぶの資金を回収できなくなる。購入した株ET Fと同じ大問題が起きてしまう。この地合いで日銀購入分を代わりに買う機関があるのか?ババ抜きに参加する民間がいるのか?私が現役だったら絶対に買わないし、部下にも買わせない。
2,「現在、日銀は20年債を126兆円をも保有していた。これ以上の購入は無責任極まりない」
失礼いたしました。20年債を日銀は既に(20数兆円超どころか)126兆円(6月末)という巨額を保有していました。満期待ちで、満期になってやっと残高を落とせます。途中売却すると債券価格が暴落するからです。また会計基準に基づき、すべての保有国債を時価評価せざるを得なくなるからです。植田日銀総裁は「償却原価法だから、財務上大丈夫」などと言えなくなるのです。 満期まで保有するという事は、20年債購入額分の126兆円、そして30年債購入額分の49.6兆円は国債満期まで市中から回収できないということです。 いくら物価上昇が加速しても市中からお金を回収できないのです。これでは物価の番人の日銀も物価抑制など到底出来ません。中央銀行の体をなしていません。 伝統的金融政策に戻すには現在530兆円程ある日銀当座預金を6兆円程度まで減らさねばならないのに、見渡せる期間内では全く不可能だということです。 満期のない株ETF を多額に保有してしまった日銀が、その残高を減らせず四苦八苦しているの同じような大問題が命が超長期債に関しても日銀を待っているのです。 もう日銀は脳天気に超長期債を買いまくるわけにはいきません。 垂涎の的だった日銀総裁職を、日銀の惨状が分かっていた雨宮前日銀副総裁、中曾元副総裁他の日銀OB ,財務省OB の誰もが引き受けなかった理由だ、と当時から私が申し上げていた理由でもあります。
3.「日米関税交渉での日本の80兆円投資は強烈なドルだけ円安要因」
先ほど、テニス仲間ではあるが、いつも私の「ドル高予想」に反対する元企業経営者MさんからEメールが来た。
「藤巻さんに、朗報のお話します。日米関税交渉で日本は80兆円投資、韓国は50兆円、合わせて130兆円の$が買われます、フェドが50pb上げても、当分の間$円上がります、安心して炎天下の中テニスに禿げんで下さい。M」
以下のように回答した。
「Mさん
流石、いいところに目を、つけられた、さすが!です。
ところで、今朝の産経新聞に「80兆円の投資『利益9割米国では、民間企業は投資しない』」 という渡邉美樹さんの論考が載っています。
論考でいわく「藤巻さんは、いずれにしろ、このディール(取引)は、円を売ってドルを買うわけだけから、80兆円の投資は、確実に円安要因になると指摘する」
流石のMさんより流石流石のフジマキさんは80兆円の投資の話が出たその日から言っております。
藤巻」
https://www.sankei.com/article/20250819-XZGLC6GY3ZE5RBNRHCYZL4JBSM/
4.「Face デザインのオリーブオイル」、
妹の次男であるFACEは最近、いろいろな商品のデザインにも仕事を広げているが、彼のデザイン入りのオリーブオイルを貰った。
5.「林家木久蔵師匠、オフコースのメンバーだったギターリストの鈴木さんたちとの飲み会」
一昨日の日曜にはテニスの後、18時から、林家木久蔵師匠、オフコースのメンバーだったギターリストの鈴木さん(長男健太の中学・高校の先輩)、NHK テレビの手芸番組で活躍中の洋輔さん(勝野洋・キャシー中島&キャシー中島の息子さん)たちとの13人の飲み会。楽しくて久しぶりに飲み過ぎた。林家木久扇、木久蔵師匠の落語ファンの集まりでもある。私が参議院任期満了の時、皆で国会見学にも来てくださった。
前日の土曜日、元オフコースの鈴木さんがNHK BS 番組「Bar昭和」で謳っていたのも話題に。
(↓ テレビに出ていた鈴木さん)
6.「懐かしき学生時代」
鈴木さんにフォークルセーダーズの北山修氏のことを聞いたら、今でも、時々ライブで歌っているとのこと。先日は日経新聞に書かれた「戦争のむなしさをかみしめよう」とのエッセイを読んだ。北山氏は今や、精神科医で白鷗大学学長でもあられる。
実は1982年頃だったか慶応大学医学部の助教授だった叔父から「今度うちの医局の学生が留学(?)するから外国での生活についてアドバイスしてくれ」との電話があった。その後、電話をしてきたのが北山修氏だった。良くしゃべられた。30分はしゃべった。何はともあれ、あの時は「大スターと30分も電話でしゃべれた」と大興奮したことを覚えている。
同じように当時の大スターだったオフコースの鈴木さんと、このように飲むようになるとは、学生当時は想像だにしなかった。感激!
次でながら、2022年に亡くなった「走れ、コータロー」の山本コウタロー氏は一橋大学の1年先輩で、国分寺から一橋学園駅(当時の一橋大は1,2年は小平、3,4年が国立で学んだ)に行く西武多摩湖線の中でよくお会いした。電車の本数が少ない上に授業に出る学生も極少なかったからよくわかった。
弟・幸夫から「僕、大ファンだからサイン貰ってきてくれ」としきりに頼まれたが、「馬鹿、学生同士でそんなことできるか|」と怒ったものである。あ~懐かしき学生時代。